Yamashita Yasuhiro Official Home Page
挑戦 photo_yamashita
HOME | メッセージとご報告 | 師と仲間たち | 講演録 | 山下泰裕の記録 | メールボックス
未来に向けて、夢に向けて。
皆さまと語り合うホームページを目指しています。
HOME > 講演録
2006/8/18  地上 9月号
決断の瞬間

決断の瞬間 山下泰裕 国際柔道連盟理事・東海大学教授

かつて203連勝という大記録を持って現役を引退した「ニッポンのヤマシタ」

柔道の指導者から人間の教育者へと、第2、第3の人生を歩みながら、いまなお柔の道の「人づくり」に砕身する。

オリンピックで勝とうが世界選手権で勝とうがそれだけじゃ半人前。その経験をいかに自分の人生に生かしていくか、これが残りの半分なんです

神奈川県平塚市にある東海入学の研究室に山下泰裕を訪ねると、約束の時間に少々遅れるとの連絡が入った。そして、待つこと十数分「いやあ、お待たせしてすみません。少し英語の勉強をしすぎまして」と、汁をふきふき現れた山下は、海外の人とのランチでことのほか話が弾んだ結果の遅刻であったことを、ユーモアたっぷりにわびたのである。

そんな恐縮しきりの山下にさっそく“人生での決断の瞬間”という本題から質問をぶつけてみた。「いくつもあります。まず熊本からこの神奈川に出てくるというのが1つの大きな決断でしょうね。高校2年生での転校でしたから、当時としてはたいへんなことでね。それからもう1つの転機は、やっぱり第2の人生から第3の人生、要するに指導者から現在のわたしに移るとき。この2つの決断を交えながら人生を語っていけばいいじゃないですか。さあ、なんでも遠慮せずに聞いてください」と、居ずまいを正した。

強くてたくましくて紳士的、しかも繊細な人であることは対しているとよくわかる。そんな山下も子ども時代は現在とは打って変わり、じつはたいへんな悪ガキであったのだ。

「小学4年のときに、『山下がいるから学校へ行けない』という登校拒否の子がいたくらいでね。根っからのワルではなかったんですが、ただエネルギーがあり余ってた。そのエネルギーをうまく発散できなくて悪いほうへ悪いほうへいってしまってましたから、まわりから見ると非常に怖かったでしょうね。休も大きかったし。けんか? 大好きだった(笑)。ただし、人を陥れてとか悲しませるということはなかったと思うんです。単にカアーツときてやっつけてしまったり、けがさせたり、物を壊してしまって『あっ、しまったー!弱ったなぁ』と。でも次の日にはもう忘れているんですよね」

そんな山下が柔道衣に初めて腕を通したのは小学4年になったばかりの春。太りすぎと腕白ぶりを心配した両親が近所の道場へ連れていったのだ。「柔道衣を着て、畳の上に立つでしょ。先生の指示に従って決まりどおりにやれば、いくら暴れまわってもだれからもなにも言われないわけです。柔道というものを通して自分のあり余る闘争心を発散できた。これは好きになりましたよ。6年のときには県大会でダントツで優勝しましたしね」

 

その後、山下は熊本市内にある柔道の名門・藤園中学への進学を決め、生まれ育った矢部町の実家を離れた。ここで恩師・白石礼介監督と出会ったことが山下を人間的にも大きく変えることになるのである。

「試合で勝つための柔道だけではなく人づくりの柔道を学びました。よく白石先生に言われたのは『単に柔道のチャンピオンをめざすのではなく人生の勝利者をめざせ。そして、つねに素直な心をもちなさい。それからもう1つは大きな夢、ロマンをもって1日1日をだいじに生きていきなさい』と。これは今のわたしにも全部当てはまる。オリンピックチャンピオン? 世界チャンピオン? なんぼのもんじゃ、とは言いませんけど、やっぱり柔道の創設者・嘉納治五郎先生が求めた柔道を通して人間を磨き高めて社会の役にたっていくことがだいじなんです。オリンピックで勝とうが世界選手権で勝とうがそれだけじゃ半人前。その経験をいかに自分の人生に生かしていくか、これが残りの半分なんです」

49歳となり、さまざまな肩書きをもつ山下にしてさえ、いまさらのように恩師の言葉は身にしみるようである。「わたしの好きな本に『下座に生きる』というのがあるのだけれど、なかなか下座には生きられない。どうしても自分を上座に据えて人を見てしまう。だからこそだれの話にも耳を傾けて学ぶ、そういう素直な心をもてという教えは今のわたしへの戒めになるんです」

多少遠回りに見えても、理解者を増やして総合力で闘わなければ、大きな仕事はできない

白石が九州学院高校の柔道部の総監督を引き受けたのを機に、山下も九州学院へ進学する。そして高校1年でインターハイ優勝を遂げるなど着実に実力をつけていった。その後、さらに腕を磨くべく、高校2年で東海大学付属相模高校へ転校。山下17歳、まさにこれが第1の決断の瞬間であった。「転校して以来ずっと指導を受けた佐藤宣践先年もわたしにとってはだいじな恩師です。先生の家へ下宿したこともあってほんとうにいろんな教えを受けましたが、それよりもその後ろ姿から学んだことは大きかった。人生にたいする姿勢とか考え方、家族への思いといったものがあらわになるわけです。人生を通して学びつづけることのたいせつさ、いかに生きていくべきかということが」

全日本の監督でもあった佐藤は、いつも努力を怠らず、対立関係にある人の話にさえ素直に耳を傾け、つねに新しいものを導入した。さらに“組織力”のたいせつさもたたき込まれたと山下はいう。「なにかを成し遂げようと思うときは人を巻き込まないとダメだ。多少遠回りに見えても、理解者を増やして総合力で闘わなければ大きな仕事はできないぞ、と。いまとても気に入っている言葉があるんですが、それは『一人ではなにもできない、しかし一人が動かなかったらなにもできない』。わたしはこの言葉のような最初の一歩を踏みだす人間でありたい」

恩師らの教えを海綿のように吸い取り人間的にも大きく成長した山下は、その後東海大学、さらに柔道の指導者を志し大学院へと進むのだが、柔道と勉学の両立は並たいていのことではなかったろう。なにせ柔道部から大学院への進学は山下が初であった。

「行ってビックリでした。みんな勉藤が大好きで勉藤ばっかりしてるんですよ。しかも、先生は課題を山ほど与えるし、英語は原書を読まなければならない。いやあ、とんでもないところに来たな、と(笑)。ただね、白石先生にこんなことを言われたことがあるんですよ。『大学まで行って国際大会で外国人と英語で話せないようなら、なんのために大学まで行ったのか。だいじなことは社会でのチャンピオンだぞ。柔道だけがんばって授業で寝てるのは簡単でだれでもできる。柔道も勉強も両方がんばることにほんとうの価値があるんだ』と」

それにしても、19歳から負け知らずで203連勝という偉大な記録はそうそう破られないだろう。それほど山下の強さは圧倒的であった。そんな山下でさえ、人生思いどおりにはならないと悟ったのは、日本がモスクワ五輪に不参加表明をしたときである。競技者として最大の試合の場で勝負をさせてもらえなかった無念さは察するに余りある。しかし、4年後のロス五輪で右足を負傷しながらもみごと金メダルを獲得した。

「勝ったときの記憶はいまでも鮮明に残っていますね。表彰台で日の丸を見ながら、ああ、おれは世界でいちばん幸せな男なんじゃないかなあと、心底思いました。やはり人生にはうまくいくこともあれば、いかないこともあります。だけど、うまくいかなかったときにこそ自分にはなにが足りなかったのか、どこがまちがっていたのかを考え、そしてその悔しさ、みじめさを忘れないでいることなんですね。その時点で今の状況を自分がどうとらえるか、そのほうがはるかにだいじなんです。だから、わたしは過去なんてクソ食らえと言うんですよ」

無敵を誇った山下もやがて引退を視野に入れるようになる。「選手時代のいちばんの誇りは、“おれは日本の柔道を背負ってきた”ということでした。ほかのクラスで負けてもわたしが膀つと、さすが日本だと思われる。ところが、ほかのクラスが全部勝ってもわたしが負けたら多くの人が日本の柔道は負けたと思う。そうすると、勝った喜びより、ああ、負けなくてよかったという安堵感のほうが上回ってくるんですね。そのときです、もうじゅうぶんやってきたじゃないか、という気持ちになったのは」ロス五輪の翌年、1985年に引退。アマチュアスポーツ選手としては初の国民栄誉賞を受賞するなど、山下が残した功績は大きい。「故郷に帰ったときに小学校の同級生たちが祝賀会を開いてくれたんですが、そのときに表彰状をぼくに贈ってくれたんですよ。小学校時代には多大な迷惑をかけたけど、今回の金メダルは当時の数々の悪行を清算して余りあるだけでなく、同級生の誇りだ、という内容のね。これはうれしかったですねえ。わたしが唯一飾ってある表彰状です」

さて、第2の人生である指導者として東海大学柔道部、全日本男子チームのコーチ、監督などを務めたわけだが、選手とのギャップは少なからずあったと告白した。「初期のころはかなり意気込んで自信満々でいったんですけど、学生から見るとそれは上からの押しっけであり、わたしの言っていることの意味がよく理解できない、ということがありました。でも、いま考えるとそれは当然でね。ただ、1年めは当然でも、3年たっても同じでは話にならないし、5年同じだったらもう指導者としての資格はないと思います。ただし、指導するといっても全員を平等に指導する指導者で一流の人間をつくる人はいない。教育者としてそれはだいじかもしれませんが、柔道の場合はケースバイケースなんですしあるいはみんなに声をかけ、ある日は特定の学生しかみない。簡単に言うと、勝負帥として勝負をかけるか、教育者としてみていくのか。そこのバランスでつねに悩むわけですよ。柔道の指導も教育も実に難しい」

山下は92年に全日本代表監督になるのだが、当時は世界のなかで日本がダントツに強いという時代は終わっていた。そんな時期にもかかわらず、山下がめぎしたのは目先の勝利だけではけっしてなかった。要するに直接選手を指導するだけではなく、コーチとスタッフの持ち味を存分に発揮させ、各人がイキイキとやりがいを感じて目標に向かって協力できるようにしたことだ。「手足になる人はいらない。欲しいのはいっしょに考えられるブレーンだ」と言った山下の言葉からもいままでにない新しいタイプの監督であることがよくわかる。「8年先のシドニーまでで監督を辞めると決めていましたから、後継者を育てる必要があった。シドニーでいくらメダルを取っても、次のアテネでだれが監督をやるんだということでは、監督としては失格なんです。だからわたしは、選手選考法にしても従来の減点方式から加点方式にし、どこが足りないかというよりもどこをどうしたらもっとよくなるのかという視点をだいじにしたんです」

選手にも自主性と自立を求め、海外の試合にどんどん出場し、外国の選手たちとの交流を深めることを要求した。また、単に柔道界に新風を吹き込むだけでなく、忘れかけていた精神、嘉納治五郎の教え「精力善用、白他共栄」(自分の持っているエネルギーをよいことに使い、他人とともに栄えることがたいせつだということ)を選手やコーチに思い出させることにも心を砕いた。

そんな山下の姿勢は、金メダル3個と銀メダル1個を獲得したシドニー五輪で報われた。そして、現在は第3の人生−柔道の発展のシステムや環境をつくっていく道を歩む。

全日本の監督を辞めた後は現場の監督とは違う視点でやっていきたい、そして嘉納先生の理想の原点に戻って、もういちど柔道を通した人間づくりをしていこうと思い、『柔道ルネッサンス』という活動を立ち上げた。この2つにエネルギーを注いでいこうと思っていた矢先、国際柔道連盟の理事に立候補してほしいという要請があったんです。これはまったく予想していなかったことでした」

最終的には、日本の柔道のためになるならと立候補し、当選。大学教授と国際柔道連盟理事という二足の草鞋を履くことになった「活動を通してわかったのは、日本は世界の柔道のためにこれだけたくさんの支援をしているのに、外国からはあまり高く評価されていないばかりかマイナスのイメージのみが伝わってくること。これにはものすごく驚きましたね。たとえば、世界の柔道界においてさまざまなルール改正があるわけですが、そのたびに日本は全部反対してきた。要するに改正するということは日本が守っているルールを変えるということですからね。ただ、これだけ世界は大きく変わり、人々のニーズも変わってきているわけで、かたくなに拒否することが世界の柔道の発展につながるのだろうか、と正直思いました」

だから山下は、日本にこだわるのではなく、つねに世界の柔道の発展のためになるかどうかという視点でルール改正には対してきた。実際、山下が理事に就任した後、提案されたものは2つあったが、山下が反対したのもその視点からズレていたからにほかならない。

魅力のある人が高い志をもって、進むべき方向を明確に指示していく。そういう組織というのはうまくいく。

それにしても、そんな丁々発止のやりとりもすべて英語なのだろうか。「英語でやらないでどうしますか。適訳はいますけど、下手は下手なりに対話して話していかないとこちらの思いは伝わらないし、『いっしょに飯でも食おうか』ということにはなりませんよ」

山下の秘書によると、彼の英語力はそうとうなもので、ほとんど通訳はいらないという。また、多忙ななかでも時間を見つけては英会話のCDを聴くなど、つねに努力を怠らない。「国際柔道連盟の仕事は、どうやって世界の国々にもっと柔道を普及させていくか、柔道のもつ教育的な価値をどう伝えていくか、それと、世界のコーチたちの意見を反映させていくことです。わたしはこの4月にNPO法人を立ち上げて、世界の柔道普及のための活動を始めたんです というのも、外国で柔道をやっている人たちというのは、日本にたいする押解が非常に進んでいますし、日本への興味も関心も高い。日本の企業や外務省などと協力して、20年後、30年後の日本理解のタネを柔道を通してまきましょうということでがんばっているんです」

これこそが真の民間外交であろう。また、国内的には“柔道ルネッサンス”を浸透させ、人づくりの柔道を教育として確立させることが山下の願いだ。今年の4月からは神奈川県体育協会の会長の仕事も加わった。そのほかにも体育の授業での柔道の指導法のあり方や、女性指導者の育成、そして山下の手がけている国際的な仕事を受け継ぎ、広げてくれる若手の育成など、やるべきことは山積している。そんな彼が描くリーダーの資質とは?

「まず志が高いこと、それから明確な決定を下せる人。そして、もっともたいせつなのは能力ではなく人間力だと思う。つまり器の大きい人であり、この人についていきたいという、そういう魅力のある人が高い志をもって、進むべき方向を明確に指示していく。そういう組織というのはうまくいくんじゃないでしょうか。そんな器を大きくするような教育がいま日本でされていないのが残念でなりません」

“心の教育”といわれる昨今、柔道を通した人づくりと国際交流を身をもって実践している山下に寄せられる期待は人きい。その堂々とした仕事ぶりには、思わず「頼んだぞ、山下!」と大向こうからも声がかかりそうだ。大きくて頼りがいのある、まさにリーダーにふさわしい人である。


HOME | メッセージとご報告 | 師と仲間たち | 講演録 | 山下泰裕の記録 | メールボックス |
Copyright 2001-2006 Yasuhiro Yamashita. All rights reserved. Maintained online by webmaster@yamashitayasuhiro.com.