講演録 / 新聞・雑誌クリッピング

2004年04月23日
社団法人 新情報センター インタビュー

日本の心を世界に

 これまで小誌では社会調査に関する専門的な記事を掲載していましたが、今後はその殻を破って広く「知ること・調べること」に関する話を紹介していきたい と思います。
 今回はロサンゼルスオリンピックの柔道で金メダルを獲得した山下泰裕氏にお話をお聞きしました。
 聞き手は編集担当の氏家豊です。

――― 今から20年前(1984年、昭和59年)、先生はロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得しましたが、実はその4年前、これも金メダルが有力 視されていたモスクワオリンピックがありました。しかし、この大会には日本が参加しませんでした。前年(1979年、昭和54年)の12月にソ連がアフガ ニスタンへ侵攻したことに対する西側の非難の中で、日本も不参加を決定したためです。このとき、東海大学の学生だった当時の山下選手はどのようなお気持ち だったのでしょうか。

山 下: 一個人の思いとしては極めて残念だったです。断腸の思いでした。

――― 当時日本では、オリンピックに政治を持ち込むべきではないので是非参加すべきだという意見と、ソ連の行為は決して許されるべきものではないので非 難の意味をこめてボイコットすべきだという意見に二分されていました。そこで新聞社などマスコミを中心にいくつか世論調査(参考1)も行われました。
 ある調査(参考2)に よると、ソ連のアフガン侵攻後(1980.1)は「参加した方がよい」が50%強、「ボイコットした方がよい」が20%強だったんですね。ところが、政府 が事実上の不参加を決めた後の調査では「参加」が35%強、「不参加」が40%弱と逆転しています。この2回目の結果は、当然、政府の方針が反映されたも のと見ることができると思いますが、このようにして世論もモスクワオリンピックに対して熱が冷めていったように思われます。しかし、さらにレークプラシッ ド冬季五輪終了後には、オリンピック熱の再生で「参加」が約50%まで上昇しています。このように世論はまさに揺れていたわけです。

山 下: この調査は何人くらいの人を対象に行われたのですか。

――― 600人です。

山 下: 600人くらいだとこの「参加」の50%はどれくらいの誤差がありま すか。

――― 5%くらいですね。

山 下: ということば、1回目の調査でほ「参加」は多くても6割には届か ず、4人にひとりは「ボイコットした方がよい」という意見だったことにもなるわけですね。

――― そのとおりです。

山 下: 今思うと、私とは反対の意見を持つ人がこんなにいたのかという感 じですね。

――― 世論は確かに揺れていたのですが、政府は2月のはじめには既 に原則的不参加を固めていたといわれています。これは今日的問題でもあるんですが、このようなオリンピックなどの世界的なスポーツの大会が政治的に影響を 受けることに対して、先生はどのようにお考えですか。

山 下: 私は先ほど、当時の-選手として、一個人の思いとしては極めて 残念だったと言いましたが、しかしそれは一個人の気持ちで、われわれが認識しなければいけないのは、政治の国民生活に与える影響というものは極めて大きい ということです。つまり、よく見てみますとすべての事柄に対して政治がかかわっているんですね。スポーツも例外ではありません。政治が向く方向によって国 民の生活がやりやすくなったりやりにくくなったり、企業にとっては死活問題にもなるわけです。しかし全員にとってプラスになることも、全員にとってマイナ スになることもあり得ないことだと思います。政府はこのような場合、国益を考慮して判断すると言いますね。私は国益というのは国民の利益だと思っていま す。国民一人一人が国を作っていると思いますから。そこで、日本政府が日本のより大きな国益を考えて、オリンピックへの参加を断念するということばあり得 ると思います。

――― ということは、政府がオリンピック不参加を決めたことを容 認するということですか。

山 下: やむを得なかったのかなと思います。ただ、やり方というもの がある。当時の政府のやり方は残念至極です。

――― それはどういうことでしょうか。

山 下: アメリカは当時カーター大統領がホワイトハウスに全選手と コーチを招いて、アメリカがなぜこのモスクワオリンピックをボイコットしなければいけないかを説明しました。そして、「皆さんがこのオリンピックに出場す るということがどういう意味を持っているのか、ボイコットすることが皆さんの努力をいかに踏みにじることになるか私はよく分かっている。しかし、アメリカ の国益のために私はボイコットという手段を取らざるを得ない」と説明し了解を得たんです。
 そういう説明があったときに、そんなわがままを言うなと反論できますか。そのように、より大きな国益を守るために、と一国の長が判断したということで す。

――― 日本政府にはそのような説明がなかったんですね。

 ここで事実経過を確認してみます。ソ連のアフガン侵攻が79年12月27日。その後10日も経たないうちに(80.1.4)アメリカがモスクワ五輪ボイ コットを提唱する。その約1ヵ月後(80.2.1)に日本政府は原則的不参加を固める。政府の最終見解としてJOCに大会不参加を伝えたのが4月末 (80.4.25)で、その1ヵ月後、JOCは総会で異例の採決の結果不参加が決定される。因みに採決は29対13であった。とまあ、こんな流れだったわ けですが。
 政府も最終決定に辿り着くまでかなり時間をかけていますね。この間、やはりスポーツ界や関係諸団体からの参加要請の声がかなりあったのではないかと思わ れます。しかし、結果はその声に応えることができなかったわけですね。

山 下: スポーツ界は国の意向を無視しては動けな いところがありますから、例えば補助金を頼りにしているところは自分の意見をなかなか言いにくかったと思います。

――― なるほど、そのようなプレシャーがあったのか も知れませんね。

山 下: いずれにしても、国として誠意を持っ て対応して欲しかったと思いますが、そういう思いを味わった者としては、次の世代にそのようなことが二度と起きないようにすることが大切だと今は思ってい ます。そのためには参加した方が国益なのか参加しない方が国益なのかを関係者に説明ができ、選手の立場や思いをより多くの人に理解してもらえるようにしな ければなりません。つまり、スポーツの持つ社会的意義をもっとアピールしていくべきで、そういった面をわれわれがどれだけ認識しているか。そういう意味で いうと、できるだけ政治による影響を受けない、むしろスポーツが政治に影響を与えるというくらいまで高める必要があると思うのです。もちろん理想論です が、国際的な相互理解をはかるためにも、そして政治の影響を受けないためにも、スポーツ関係者がそこまでスポーツの社会的存在意義というものを認識してい く必要があると思います。

――― ところで、先日新聞などで報道されていま したが、イラクに柔道着と畳を贈られたそうですね。

山 下: イラク柔道連盟から国際柔道連盟 の教育・コーチング理事である私にそのような依頼がありましたので、私が日本柔道連盟と外務省に働きかけて実現したわけです。150着のうち100着はリ サイクルですが、外務省で目録を受け取ったイラク柔道連盟会長のアル・ムーサウィー氏からは、日本の皆さんに頂いたと理解しておりますと言う御礼の言葉が ありました。

――― イラクはまだ社会情勢が落ち着かない ようですが、スポーツをする余裕はあるんでしょうか。

山 下: イラクで畳も柔道着もないのに一生懸命柔道に励んでいる人たちがいると聞いています。日本も戦後、食べるもの がない時期に柔道をはじめとするスポーツでがんばっておられる方がたくさんいたと聞いています。貧しい中でもそういう取り組みや苦労があるはずだし、そう いう活躍が戦後の明るい話題のない国民を元気付けたのだと思います。厳しい状況だからこそそういうことか大事なのではないでしょうか。それとマスコミの人 から今後イラクに対して他にどのような支援をしたいと思っているのかと聞かれましたが、むしろ私としてはイラク以外にも貧しい、大変な状況にある国に支援 を広げたいという気持ちです。イラクのように日本に関係がある国だけではなく、同じ人間に対してしてあげられることをするという方向に僅かでも進んでもら えばいいなと思っていますし、これからも日本人の中にそのような他の国の人を思う気持ちが育つ方が大事だと思いますね。

――― イラクのように情勢不安や政治的 な理由で柔道の普及もままならないというところは多いのでしょうか。

山 下: 情勢不安でというよりも、一番の問題は貧困だと思います。柔道は比較的コストがかからないスポーツではあるけ れど、それでも畳や柔道着が必要です。安い柔道着一着5千円くらいで買えますが、それすら1か月分の給料だというところが世界で半分くらいあるんです。情 勢不安や政治的な理由も柔道の普及を妨げていることは事実ですが、貧しいためにやりたいことができないでいるという人たちのためには、われわれも手の施し ようがあるのです。

――― 先生が大きな心で国際貢献を されていることがよく分かります。

山 下: いや、国際貢献とい うとそうではないと思います。柔道の心は日本の心と通じる。柔道においては技術指導だけではなくその柔道の心を世界に広げていきたいと思っています。そう することによって日本の心というものを世界の方々に広く理解してもらいたい。一方的に押し付けるのではなく異文化交流という気持ちで、そして指導する立場 でも同等の気持ちで接するというそういう気持ちになれれば、日本に対して親しみを持つことにつながるのではないか。あげるだけなら貢献だけど、そうして日 本を理解してもらって、日本や日本人に対する信頼を得ていく活動が大事だと思っています。

――― わかりました。国際貢献 ではなく国際交流ですね。

山 下: そうです。

――― ここで、また他の世 論調査の結果をご紹介したいと思います。

 昨今、国民 のスポーツに対する関心は非常に高くなっています。この世論調査の結果(参考3)を みると国民の7割か何らかのスポーツを行っています。そして、どのような運動・スポーツを行っているかを聞いたところ、「柔道、剣道」と答えた人は全体で 0.8%という結果になっています。非常に乱暴な推計をしますと、これは少なくても30万人くらいになり、そのうち「柔道」が半分くらいだとすると15万 人くらいということになるのですが、日本の柔道人口は実際のところどれくらいあるのでしょうか。

山 下: 柔道人口と いうのは分かりませんね。ただ、ひとつの目安になるかと思いますか、日本柔道連盟が主催する柔道大会に出場できる登録者の数は約20万人程度です。

――― そうしますと、 この調査結果もまんざらではないというところでしょうか。ところで、これはまた別の調査結果(参考 4)で10代の子供の運動・スポーツの状況を調べたものです。
 子供たちの体力低下についてはここのところ毎年のように報告されていますか、10代の青少年の運動・スポーツの実施状況をみますと、行なっている子と行 なわない子の2極化がみられます。先生は「運動しない子供たち」についてどのように感じていらっしゃいますか。

山 下: これは 何も子供たちだけにあてはまることではありませんが、人は頭でっかちじゃだめだし、スポーツばっかりでもだめだし、バランスを持って、主体性を持って、他 の人たちと支え合いながら生きていくということが大切でしょうね。知的な面は今の教育で十分高めることが期待できる。そうでない部分においてスポーツが担 える部分が多いと思います。今の世の中、子供たちもストレスが溜まります。他の人とのコミュニケーションをとることが難しくなっているようですが、汗をか くことによって爽快感があるばかりでなく、相手を思いやること、ともに力を合わせること、決まりを守ること、我慢すること、こういった日常の生活の中では 押し付けであるようなこともスポーツではスムーズにできる。人間らしく生き生きと生きていくためにはスポーツは非常に有効なのではないでしょうか。ただ、 私がこの調査結果を見て残念に思うことは、「非実施者」も問題だが、燃えつき症候群か心配な「週7回以上」も問題だということです。子供たちのスポーツラ イフはこのような谷型ではなく、この反対の山型の姿になるのか望ましいと思います。

――― 最後に、先 生か今後目標としていることはどのようなことですか。

山 下: 選 手の強化以外では、目標にしていることが二つあります。ひとつは柔道を通した人間教育、これをいかに実践していくか。それともうひとつは国際柔道連盟の理 事として世界の恵まれない国に対していかに支援を行っていくか。利用できる組織や機関をフルに利用して進めていきたいと思っています。そして、それを通し て目指すことは日本という国を理解してもらいたい、そのような国々と日本を結ぶ架け橋になりたいということです。しかし、これは一人ではできませんから、 できるだけ多くの組織や機関を巻き込んで進めていきたい。志半ばで倒れてもそれを引き継いでくれる次の世代が育つような土壌を作っていくことも私の務めだ と思っています。

――― 先生が 倒れるというのはなかなか想像できないことですが。どうか今後もがんばってください。
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