講演録 / 新聞・雑誌クリッピング

2004年08月09日
山下泰裕 東海大学教授/国際柔道連盟教育コーチング理事
柔道を通して、信頼される日本を作りたい
  1984年のロス五輪での金メダル獲得をはじめ、「世界のヤマシタ」として名高い山下さん。昨年9月には国際柔道連盟の教育コーチング理事に就任し、柔道 を通して日本の心を世界に伝えるために、世界を飛び回る毎日。「日本と世界の架け橋になりたい」と語る山下さんの、「柔道を通した国際交流」に対する意気 込みをうかがった。

教育コーチング理事の役割
――― 昨年9月に国際柔道連盟の教育コーチング理事に就任されましたが、アテネオリンピックを控え、どのような活動をされているのでしょうか。

山  下: 私は、オリンピック時には国際柔道連盟側の本部役員の一人として、すべての選手がカを発揮できるようにする役割を担っています。もちろん日本人と しての意識を忘れることはありませんが、ここでは“世界の柔道”という立場から、その責任を果たすことになります。このような、日本の選手団以外の立場 に、私という日本人が入っている意味は大きいと思います。

――― どのような経緯で教育コーチング理事をお引き受けになったのでしょうか。

山  下: 最初に話があったのは一昨年の9月です。世界の柔道に、日本からの人材が必要だということで、全日本柔道連盟の嘉納行光会長より「山下、お前しか いない。日本の柔道のために立候補してほしい」と話がありました。しかし、これを引き受けるということは、私の人生を大きく変えることにもなりますから、 とても悩みました。実際、理事を引き受けると、年間100日くらいはこの仕事で大学を離れることにもなるのです。その他にも外務省関係や全日本柔道連盟の 仕事もしていますから、最初は大学や周囲に、「これ以上職場を抜けるのは困る」と言われました。しかし、考え抜いた末に、日本柔道の今後の発展を考え、柔 道を愛する者として引き受けることを決断しました。
 理事になるということはそう簡単なことではありません。外国との英語でのやり取りもふえるので、語学の勉強もしなきゃいけないし、そのための時間もとら れる。そういう意味でも、簡単な気持ちで受けたのではありません。その価値や意義を考えたうえで、並々ならぬ決意で受けました。

――― 具体的な業務というのは、どういったことがありますか。

山  下: 理事になるにあたって、私は三つの公約を掲げました。一つは、柔道がオリンピックスポーツとして理解されるように努めること、二つ目に柔道が多く の国に普及、発展するように努めること、そして三つ目が柔道の教育的価値を認識してもらい、それを高めることです。これらをふまえた上で、1月にはアテネ で教育コーチング会議と教育コーチングセミナーを開催し、4月にはニューカレドニア島でも教育コーチングセミナーを開催しました。世界の国々のコーチたち と意見交換しながら、柔道がたくさんの人にとって楽しく、やりたいと思えるスポーツであるよう、普及と発展に努めるのが私の役割です。

日本の文化を世界に広めて

――― さて、世界全体で見ると、柔道はどれくらい浸透しているものなのでしょうか。

山 下: 現在、国際柔道連盟に加盟している国が187カ国あるのですが、これは、オリンピック種目の中で加盟国が5番目くらいに多い競技と聞いています。
 今、オリンピック種目の見直しが検討されていて、カットされる可能性のある競技もいくつかあるようですが、柔道に関しては、そういう問題はまったく出ていないそうです。そういう意味でも、柔道はまさに世界のスポーツであると言えますね。

――― 山下さんが、柔道を世界に伝えていきたいと思うのはなぜでしょうか。

山 下: 柔道で使っている言葉というのは全部日本語(世界共通)で、その礼法も全部日本式です。柔道着を着て、裸足で畳の上に立ち、日本式の礼法をする。それだけで日本文化の体験、日本式の礼法を学ぶ体験になると思います。
  それと、柔道をやっている人は、みんなとは言いませんが、比較的日本に対しての関心が高いし、日本を理解しています。ですから、もっと世界の多くの人たち に柔道が広まっていけば、それだけ日本を理解する人が増える。これは、日本にとって大きなメリットです。
 その一例として、ロシアのプーチン大統領は、25年間柔道をしていたのですが、「柔道は単なるスポーツではなく、哲学だ。私は柔道から人生の生きる術を 学んだ」と言っています。こういった人が一国のリーダーになるということも、日本にとって大きな意味があります。

――― 世柔道を通して、日本を理解してもらうことができるということですね。

山  下: はい。また、イスラムの世界ではアラーの神以外には頭を下げないとされていますが、柔道は畳の上ではみんな頭を下げます。それは、柔道は相手に対 しての敬意、尊敬が非常に大事だということを理解しているからです。このように、柔道が世界に広まることは、日本を理解してもらうために、とても意味があ るのです。

協力隊の活動に協力したい

――― 柔道を広めていくうえで、大切な心構えは何でしょうか。

山  下: 従来、日本から海外へ派遣された指導者は、どうしても技術の指導だけに偏ってしまっていたところがありました。残念ながら、中には上から下に人を 見るように「教えてやる」と考える人も稀にいたようです。しかし、それでは相手の民族としての誇りを傷つけ、信頼を損なってしまうことになります。
 そこで、昨年6月、全日本柔道連盟では海外への指導者派遣の目的として、柔道の技術の向上に寄与するだけでなく、現地の人たちに、柔道を通してその教育 的価値や日本の心を伝えること、そしてそれは相手の文化を理解しながら進めていくということを明文化しました。これで、派遣される人問が自分の使命を理解 すれば、活動が変わると思っています。

――― 隊員に会って、どのような印象を持たれましたか。

山  下: 現地で協力隊の人たちと会うと、生き生きしていて、今まで柔道をやってきたことに対して誇りを持っているように感じます。中には“選手”としては 大きな花を咲かせることができなかった人もおりますが、協力隊員として柔道を指導することで、柔道の素晴らしさを再発見し、目を輝かせて活動している姿を 見ると、私までうれしくなりますね。
 今までも、柔道の日本チームとして現地に行った場合に、適訳なども兼ねて、柔道隊員に限らず、協力隊の人にお世話になることがありました。これからは私 も、お世話になるだけではなく、教育コーチング理事としても、彼らがもっと活動しやすいよう、彼らの活動が認知されるように協力していきたいと思います。

――― 指導者の派遣だけでなく、山下さんは、この3月に、イラクに畳200枚と柔道着150着ほどを送るという支援活動もされていますね。これは、どのように決まったのですか。

山  下: 始まりは国際柔道連盟のパク会長あてに来た一通の手紙でした。そこには、「イラクは戦争ですべてを失い、柔道の畳や柔道着も盗まれた。助けてくれ ないか」とありました。イラクには柔道クラブが30ほどあって、有段者も100名以上いるのですが、戦乱の荒廃したなかでは、柔道がしたくても何もないの です。そこで私は、外務省と国際交流基金に「柔道着は全日本柔道連盟で準備するので、その送料を出してもらえませんか」と持ちかけ、話がまとまったので す。この柔道着と畳を送ることで、日本人がイラクに対して支援したいものは何かということを柔道という形で伝えたいと思ったのです。でもこれは、そのス タートに過ぎませんが。

オンリーワンの経験を日本の財産に

――― 柔道を世界に広めることで、足元である日本にも期待できることはありますか。

山 下: 日本にいると、なかなか日本を見直すことができないんです。
 しかし、協力隊の人は、開発途上国で生活するなかで、いろんなショックを受けながら、日本と世界のことを理解していくことができると思います。日本を外 から見比べる経験から得た視点というのは、非常に貴重なものです。しかし、残念ながら、日本の社会がその経験を持つ人をうまく受け入れられなかったり、あ るいはそういった経験をした人自身が、帰国後に日本の生活を受け入れられない場合もあるようです。
 これからは、海外での経験を元に日本を見る視点を持つ人が評価され、またその人がそれを生かして、地に足をつけた人生を歩んでいけるような社会になってほしいですね。
 ある人が得た貴重な経験や視点を、より多くの人が評価する社会になれば、その経験は個人のものではなくて、日本全体にとっての財産になります。そしてそ ういう経験を持つ人が増えていけば、日本と世界の関係も、日本人の若者の心も、少しずつ変わっていくのではないでしょうか。

――― 日本を含めた世界の関係が変わっていくということでしょうか。

山  下: 国際オリンピック委員会でも、国際柔道連盟でも、開発途上国への支援は大きな部分を占めています。スポーツには、文化や宗教、そして人種を超越 し、言葉が分からなくてもお互いを理解しやすい部分があります。今のようなときだからこそ余計に、信頼できる関係を大事にしていくのが、日本の世界への貢 献としてふさわしいのではないでしょうか。
 柔道に限らず、日本は世界のために大きな協力を行っています。世界の国々を支えることで、日本への信頼を育てていると思います。今の日本は開発途上国を 支える立場にありますが、いつか日本が困ったときには、いろんな国が「日本を支えよう、助けよう」と思えるような、大きなサイクルにつながると思います。 世界全体を見たうえで、どんな日本を次の時代に残すかを考えるのは、われわれ大人の責任です。

――― 多くの人に、海外での経験を日本に持ち帰ってもらいたいですね。

山  下: 現在、柔道指導に対する要請は多いのですが、まだそれに応えきれていません。ですから、講道館とタイアップして、海外での柔道指導経験者の報告会 を開こうと思っています。そうした場で、柔道の持つ価値や協力隊の活動の意味を学ぶことは、必ずその後の人生に生きると思います。若い人だけでなく、シニ アの世代も、この使命を理解して、もっと多くの人に目を向けてもらいたい。
 協力隊だけでなく、JICAで働く方々も、高い使命感と誇りをもって、この活動を支えていただきたい。私も、立場は違いますが目指しているものは同じです。これからも協力しあっていきたいと思います。

――― イラクのように情勢不安や政治的な理由で柔道の普及もままならないというところは多いのでしょうか。

山  下: 情勢不安でというよりも、一番の問題は貧困だと思います。柔道は比較的コストがかからないスポーツではあるけれど、それでも畳や柔道着が必要で す。安い柔道着一着5千円くらいで買えますが、それすら1か月分の給料だというところが世界で半分くらいあるんです。情勢不安や政治的な理由も柔道の普及 を妨げていることは事実ですが、貧しいためにやりたいことができないでいるという人たちのためには、われわれも手の施しようがあるのです。

――― 本日はお忙しいなか、貴重なお話をありがとうございました。

PROFILE
1957年熊本県生まれ。東海大学大学院体育学研究科修了。柔道8段。84年、ロサンゼルスオリンピック無差別級で優勝、同年に国民栄誉賞受賞、82年フ ランススポーツアカデミーグランプリ受賞ほか多数受賞。85年の現役引退までに203連勝、柔道全日本選手権9連覇、世界選手権4連覇を果たす。2003 年9月に国際柔道連盟の教育コーチング理事に就任。著書に『黒帯にかけた青春』(東海大学出版会)、『楽しい柔道』(小峰書店〉など。
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