山下泰裕(全日本柔道連盟理事)×青山晴子(サバススポーツ&ニュートリション・ラボ青山副所長)
'88年のソウル五輪の惨敗から、日本柔道は"世界に勝つ"が絶対的な使命となる。柔道会の改革を引っ張ってきた当時のコーチ、山下泰裕氏とその復活劇を 影で支えてきた明治製菓「ザバス スポーツ&ニュートリション・ラボ」青山副所長に当時の様子を振り返ってもらった。
-昨年のアテネオリンピックで見事な成績を収めた日本柔道ですが、選手たちを支える明治製菓のザバスとであったきっかけと、その後の取り組みについてお話いただければと思います。山下さんとザバスの出会いはいつですか?
山下「ソウルオリンピックで日本柔道が世界に惨敗した後でした。全日本のコーチとして指導する立場だったのですが、コーチ陣も含めて、食事に気を使っていないことに疑問を持ちまして」
青山「当時の減量には驚きました(笑)」
山下「レスリングの選手たちにも"柔道の減量はひどい"と言われていました。一部のトップ選手を除けば、減量は、とにかく体重が減りさえすればいいものだった。落ちた分が脂肪だろうが筋肉だろうが関係ない。水分もとらないくらい」
青山「まさに飲まず食わず。"干からびています"という感じでしたよね」
山下「そんなひどい状態だったから、少し気を使うだけでも、原料も疲労回復ももっとうまくできるのではないかと思い始めていたんです。でもそのときは、別の会社に相談していたんですが(笑)」
青山「おっしゃっていましたね(笑)」
山下「その会社には、夏合宿の食事メニューを元に、食事の改善点を指摘して欲しいとお願いしていたのですが、その分析データが出てきたのが年末で、大会は 終わっているし、分析データも期待していたほどではなくてガッカリしていたんですよね。もっと親身になって協力してくれる会社を探しているときに、たまた ま同じ東海大学の陸上部の先生で高野進さん(現コーチ)を育てた宮川千秋さんにポロッとこぼした愚痴に、『山下君、いい人がいるよ』と紹介されたのが、ザ バスの青山さんだった」
青山「'90年でしたね、確か」
山下「そうですね。私は当時、何としてでも代表チームを強くしなくてはいけなかった。"本気で、選手たちを栄養面からサポートしてくれる会社"に協力して もらいたかったんです。明治製菓のザバス以外にも話を聞きましたが、要望に対して『出来ます』と応えてくれたのは、ザバスだけだった」
青山「先生のご要望は大きいですから(笑)」
山下「それは当然です。普段の練習を見に来てほしい、食事の風景も見てほしい。少しでも柔道を理解してもらい、改善できることは何でもしたかったんです。」
-青山さんは、全日本チームを見ることになって、どんなお気持ちでしたか?
青山「山下先生にお会いできるうえに、日本のお家芸といわれる柔道男子のサポートなど思ってもみなかったこと。それだけでとても心躍る仕事だと思いました。やりがい200%という気持ち(笑)」
山下「よく入ってこられましたよね」
青山「どのコーチも"選手を勝たせたい"という気持ちに溢れていて、その本気度が痛いほど伝わってくるんです。だからもう、怖いとか言っていられなくて(笑)。お仕事をさせて頂くだけでとても光栄だと思いました」
山下「柔道は、当時も今も"金メダルでなければメダルではない"という気持ちが強いんです」
青山「世界がライバルであって、世界で勝つことが皆さんの願いでしたね」
山下「ソウルで斉藤の金1個という惨敗があったから余計にそうでした」
-栄養学が浸透するまで、大変な苦労があったかと思いますが。
山下「そうですね。当時、柔道以外の手を借りることは異例でしたから」
青山「みなさん、半信半疑でしたよね」
山下「なんで外部の人を使うのか、何で栄養を大事にするのか、栄養じゃなくて稽古と技術だろ、等々…。私には直接入ってこないけれど、そういう声はやはりあったみたいです」
青山「私は面と向かって言われましたけれど(笑)。でもそう言っていた方々も、サポートを通して良き理解者になってくださいました」
山下「私はね、勝つために必要な要素が100としたら、栄養や減量は全体の3%程度のことだとわかっていたんです。栄養や減量さえしっかりやれば勝てるわ けではないですよ、稽古と技術が一番大事なんですから。けれども、世界のトップで戦うには、1%、いや0.5%の差を詰めることが難しい。でも、栄養の 3%は、我々柔道人がどれだけ努力をしても、逆立ちしても、20人、30人集まっても出来ないのではないかと。この部分をその道のプロに託し、結果3%で も上がればすごいことだと思ったんです。一生懸命に努力下上で、人の力を借りて3%あがるのは、ものすごい差、紙一重ではないんです。"ものすごい差"な んです」
青山「その気持ち、本当に有難いです」
山下「半信半疑だった柔道会の目がいつ変わったかといえば、'92年です。バルセロナの選考会に出た吉田が、減量の失敗で惨敗したんです。直後から青山さ んが減量メニューをつくり、それに従った吉田選手が最後のチャンスで勝ってオリンピック代表に選ばれた。これでザバス、そして青山さんへの信頼がググーっ と上がるんです(笑)。青山さん、もともと選手の心掴むのがものすごくうまいんですよね。何でも相談に行きたくなるような明るい雰囲気で」
青山「自分ではよくわかりません(笑)」
山下「だからこそ、バルセロナの本番に"是非青山さんを一緒に現地に連れていってくれ"となったんです。"遠征費用は半分しか出せませんけれど″って(笑)」
青山「そうまでしていただき、現地に入ったんですが、大変なことが…」
山下「はい、古賀の怪我です。そうでなくても減量が大変だったのに、練習で足を怪我して運動が出来ない。あの状態の中や何で体重が落ちたかと言ったら、も ちろん古賀の精神力もあったけど、青山さんの力も大きかった。減量に成功し、古賀は金メダル。最後の最後でオリンピック代表になった吉田も金メダル。多く の人の協力もあったけれど、青山さん無しに二人の金メダルはなかったです。バルセロナの日本柔道の金メダルは、あの2つだけですから、男女含めて」
青山「すべては、選手自身の力です。私はあくまでも"サポート"ですから」
山下「でも、選手たちは本当に青山さんを信頼しているんですよ。なぜかといえば、あなたをプロだと思うから。栄養や減量やコンディショニングということに 関してはもちろんだし、自分と選手の垣根を低くするために、いつも笑顔で臨機応変な対応をしてくれた。"本当のプロだ"と思いましたよね」
-91年の世界選手権、92年のバルセロナを経て、日本柔道とザバスは、一心同体となっていくわけですね。
山下「はい、そうです。バルセロナが終わって男子は山下体制になりましたが、私もコーチたちも、栄養の重要性を良くわかっていましたからね。"栄養なんて"という声は、すでに消えていました。皆で一丸となって世界を見ていましたね」
青山「はい。合宿のたびに、熱いミッドナイトミーティングが行われて…」
山下「毎晩1時とか2時時すぎまで(笑)」
青山「コーチの先生方も朝6時半からトレーニングをされていたので、いつか倒れる人が出てくるんじゃないかとヒヤヒヤしていました。でも、真剣に柔道について語り合う場にいつも入れていただき、気持ちがどんどん結束していきました」
山下「みんな熱いもの持っていたと思いますよ。コーチたちもね」
青山「柔道界の考え方とか先生方の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。寝る時以外は、朝からミッドナイトミーティングまでコーチの先生方とずっと一緒なわけですから、染まりますよね(笑)」
-青山さんは、その時にはどんな気持ちでサポートをされていたんですか?
青山「迷っている余裕なんてなかったです。とにかく、ニッコリ笑顔で高い要求をなさる山下先生の投げかけに、無我夢中で中で答え探し、そのためにチームドクターをはじめ、他のサポートスタッフにもお力添えをいただきました」
山下「そういえば、当時の柔道界は大学含めてはとんどのところが2食制だったんですが、それを青山さんに相談して3食制に変えましたよね。3、4年たったころには、女子も含めて柔道会は殆どが3食制になりましたよね」
青山「2食制のことは気にはなっていたんですが、どこから手をつけて良いかわからなかったんです。『どう思われます?』と先生に聞かれて『待ってまし た!』とばかりに(笑)。山下先生は疑問や要求がとても具体的で、『トレーニングの効果を得るためにはどちらが良いのですか?』と質問されました」
山下「選手自信がせっかく頑張るのだからそれなりの結果を出させたいという思いがあったんです、より早く。1番を目指すのだったら妥協をしたくなかった」
青山「そういった先生方と、毎日の稽古の中で常に自分の限界を超えようとする選手たちを見ていると…。先ほど山下先生は、一生懸命私のキャラを誉めてくだ さいましたが(笑)、私に限らず、たぶんどなたでもコーチ陣の熱意と自分の限界にチャレンジする選手を見たら、やはり何か"自分に出来る事をやろう"、純 粋にそう感じると思います」
山下「でもね、実は青山さんに1つだけ『これは止めて』ってお願いしたことがあるのです、覚えていますか?」
青山「あのことかな…(笑)」
山下「選手が一生懸命に練習して、高いレベルにいってしまうと青山さんはあんまり仕事がないと思うのです。でも役に立ちたいわけですよ。青山さんは(笑)」
青山「あ…。あのことですね(笑)。もちろん覚えています」
山下「青山さんは、水分補給のドリンクを作ったり、それをペットボトルに入れるところまでやってしまうんですよ。我々が目指しているものは、最終的には青 山さんがいなくても、私も担当コーチもチームドクターがいなくても、自立して1人で戦っていける、そういう人間づくりなのです。サポートメンバーは、会社 の都合で変わることだってある。だから青山さんが今いなくなっても、自分で出来るようにしたいと。依存をしてしまうと、下手すると、抜けた時に存在が大き 過ぎて穴が大きくなることも有り得る。だからこそ、アドバイスすることで自立に繋がるようにしてくださいとお願いしました」
青山「まさしく先生のおっしゃる通りなんです。ちょうど、みんなの意識が変わり、職環境が整い、食行動の改善も定着しはじめた段階だったのです。そうする と、さらに何かやりたい、自分の手や体を動かしていたい気持ちになってしまい、それがつい安易な方向に行き…」
山下「いや安易ではないですよ。慕われているし頑張って欲しい。少しでも良い成果をだすためにね。でもそれが依存に繋がってはダメだ。常に自立と精神的な逞しさ。これだけは身につけて欲しいなと。選手達にもきちんと伝えましたよ」
青山「選手をどう育てるかということですね。"自立した選手づくり"こそ、柔道界の強さだと感じていたので、先生にお話を頂いたその瞬間に、何の異論もなく納得しました」
山下「当時は青春時代と言ったらおかしいかもしれないけれど、コーチや青山さんたちサポートスタッフと一緒になって、1つのことに取り組んで本当に良い思い出ですね」
青山「本当に、青春のようでした(笑)」
山下「第2のね(笑)。青山さんだけではなく、あの当時のコーチたちもみんなそういう思いを持っていますよ」
青山「私だけかと思っていました。うれしいです、そのお言葉」
―今では、全日本男子だけでなく、女子柔道も全面的にザバスがサポートしていますが、今後、ザバスに期待をすることは何かございますか?
山下「たとえ、お互いの状況がどんな風に変わったとしても、これからもずっと一緒に同じ夢を追い続けて行って欲しい、そのひと言です。柔道に限らず、ス ポーツ選手が世界の大舞台で活躍をすることで、多くの日本人が夢や勇気をもらったり、感動をもらったりするんです。そういう意味では"社会貢献している" くらいの気持ちで、サポートをお願いしたいです(笑)」
青山「はい、承りました!」