講演録 / 新聞・雑誌クリッピング

2005年12月09日
新生プラチナマネーNOVEMBER「勝ち負けを超えた、人間教育の高みへ」
世界に通じる柔道ルネッサンスを目指して。
昨年のアテネオリンピック、また本年カイロで開催された世界柔道における、日本柔道界の活躍はまだ記憶に新しい。
その源流のひとつは、今から21年前の1984年、ロサンゼルスオリンピックの山下泰裕氏の金メダルにあると言ってもいいだろう。その山下泰裕氏が取り組む柔道を通じたさまざまな活動について迫ってみた。
ある晴れた秋の目、取材スタッフは小田急線・東海大学前駅に集合し、一台の車に同乗して、本日の取材場所である束海大学湘南キャンパスへと向かった。駅か ら大学までは歩けば約15分。ゆるやかな上り坂である。道々は多くの学生たちが行き交い、はつらつとした息吹が感じられる。そんな中、ひとつの大きな背中 が、学生に混じり、上り坂を踏みしめるように上っていくのが車中から見えた。山下泰裕氏であった。右手に大きな鞄、左手に背広の上着を抱え、例年より暖か い秋の陽射しの中を、汗を拭いつつ歩いていた。

車を止める余地の無かった取材スタッフは、やむなく山下氏を追い抜き、先に研究室で待つことに。早めに着いてしまったスタッフに、「遅くなってすみませ ん」と丁寧に頭を下げ、山下氏が入ってきた。東京でのさまざまな打ち合わせから帰ってきたところだという。

「実は昨日は『柔道ルネッサンス実行委員会』の幹部の集まりに出席しました。その後も現役の選手たちと会っていろいろな話をし、結局束京に泊まってしまっ たんですよ」とうれしそうな笑顔で語る。現役を引退してから既に21年。今も尚、柔道界の中心的存在として、日本、そして世界を舞台に精力的に活動する山 下氏の横顔が垣間見えた瞬間だ。氏の言葉の中にあった『柔道ルネッサンス』とは、講道館と全日本柔道連盟が2001年より合同で進めているプロジェクト で、山下氏はその委員長をつとめている。


我が子に柔道をさせたいと、母親たちに思わせたい。

現在、山下氏らが推進する、その『柔道ルネッサンス』とはどういったものなのだろうか。

「一言で言えば、お母さんたちに、我が子に『柔道をさせたい』と思ってもらえるようにすることですね。野球やサッカーの方がかっこよく思えるかもしれな い。でも、『柔道をやっている人は、どこか違うわよね』と感じてもらえ、あんな風に我が子にもなって欲しい、そのために柔道に挑戦して欲しい、と思っても らえるのが理想です。それはつまり、きちんと挨拶できる、というような礼儀から始まって、逆境に負けない強い心、相手を思いやる優しさなど、柔道本来が 持っている精神をしっかりと伝えていける環境をつくる、ということです。実は、最近までの柔道には、勝ち負けのみにこだわって、そういった『人間教育』の 視点が軽視されていたのです」

現役時代、203連勝という驚異の無敗記録を達成し、誰よりも勝負にこだわってきたと思われる山下氏。その氏が『勝ち負けのみにこだわって、忘れてしまったものがある』という。果たしてそれは、どういうことなのだろうか。

「講道館柔道の創始者、嘉納治五郎先生の言葉に『精力着用、自他共栄』というものがあります。これは柔道の基本理念を示したものです。少し前まで、たとえ ば国際大会などで、外国の選手が腕を突っ張って、なるべく技を掛けられないようにして、なんとか優勢勝ちをしようとしたり、審判の判定に対して文句を言っ たり、ということが時折、見かけられました。国の名誉や生活がかかっていますから、気持ちは分かる部分もあるのですが、一方、そうした行為は柔道という競 技の魅力を失わせるだけではなく、その精神にも反するものです。勝ち負けということに全力を尽くすのは当たり前のこととして、さらに柔道を通じて自分も相 手も、より高い次元にレベルアップしていく。勝者と敗者に分かれたとしても、お互いの健闘を気持ちよく称え合える。配慮しあえる。そういった『自他共栄』 が大切、と嘉納治五郎先生は教えていますし、私も、その通りだと考えるようになりました」


柔道を通じて日本の心を広く世界に伝えたい

一時期の柔道の風潮に危機感を抱いた山下氏。国際柔道連盟教育コーチング理事という役職についてからは、世界のコーチたちとの対話を繰り返したという。

「コーチたちとは、柔道とは教育的なスポーツである、ということを確認しあいました。国際大会とりわけオリンピックは、各国のトップクラスの人間が集まる 大会。強さだけではなく、人間的にもトップクラスの人間が集まる場にしようじゃないか、と呼びかけて、大きな賛同を得ることができました。その結果、アテ ネでも礼儀を重んじた、気持ちのいい運営ができました。これは柔道の精神をみんなが理解してくれた結果だと思います」という山下氏。続けて、次のように 語った。

「この柔道界が抱えていた問題は、実は日本や世界が、今、抱えている問題でもあると思います。とにかく勝てばいい、勝った者だけがモノを言える、勝った者 がすべてを得られる、という風潮は、精神の荒廃を生み、大きく言えばテロに繋がっているかもしれません。子供たちの心にもいい影響はないでしょう。私たち は柔道の精神、相手は敵ではなく、自分を高めてくれるものであり、尊敬すべきものである、ということを再度見直し、その精神を社会に広めていきたい。それ が『柔道ルネッサンス』だと考えています」

現在、国際柔道連盟には、世界195の国と地域が加盟。柔道は極めて国際的な兢技へと発展したと言え、その影響力も増している。

「柔道は、『一本』をはじめ用語はすべて日本語ですし、ここまでお話ししてきた基本的精神は、実は日本古来の『武士道』にも通じるものです。ですから、世 界で柔道を普及するということは、日本を理解してもらう、ということにもつながります。普段はアッラーにしか頭を下げないであろうイスラムの選手も、試合 では日本の精神を理解し、しっかりと礼をします。実際、アフリカの青年が柔道を学んでいて、そこで使われる日本語と礼などに興味を持ち、ついには日本語の ガイドになった、というお詰も聞いた事があります」


まず指導者自らが、成長することが大切

「結 局柔道といっても、現役を引退してからの方が人生は長い。もちろん、鍛えられた体は財産になるでしょうが、もっと大切なのは柔道で培った心です。つまり形 ではなく、精神を継承していくことが重要。単に形だけ柔道をしていても、素晴らしい人間になれるわけではありません。『柔道ルネッサンス』ではそのあたり をしっかりと伝えていきたいと考えています。ただ、これは言葉で言ってもだめ。指導者自らが精神を鍛え、成長する姿を見せなければ、精神は伝わらない。こ れは子育てでも同じでしょう」

熱く語る山下氏。話はいつしか、子供たちの教育のことについて戻っていった。
「エネルギーがありあまって、ちょっと悪いことをしている子供たち、逆に、内向的で、なかなか積極的になれない子供たち、その両方に柔道を教えてあげたい ですね。余っているエネルギーはいい方向へ向かわせる、消極的な子供たちにはやさしく声を掛けて心をひらかせる。そんな力が柔道の精神にはあると思いま す」

私は過去を語るより、未来の話をするのが好き、という山下氏。そのビジョンは尽きることなく、少年のように目を輝かせて語ってくれた。同時に、その理想を 実現するために、ひとつひとつ、実際に人と語り、行動し、具体化への布石を打っている。その様子は、取材前に見かけた、上り坂を、荷物をもって、一歩一歩 踏みしめながら、確かな足取りで歩いていく大きな後ろ姿と、イメージが重なるようだった。
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